大判例

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浦和地方裁判所 平成4年(わ)459号 判決

主文

一  被告人両名をそれぞれ懲役三年に処する。

一  被告人両名に対し、この裁判確定の日から五年間、それぞれ右刑の執行を猶予する。

一  被告人両名から、押収してある牛刀一丁〈押収番号略〉)を没収する。

理由

(犯行にいたる経緯)

被告人甲は、父太郎(平成四年四月二二日死亡)、母花子の長男として東京都内で出生したが、経済的に恵まれない家庭の中で苦学を重ね、浦和市内の県立高等学校を経て、東京大学に進学し、昭和四〇年三月同大学文学部国文学科を卒業した。その後、同被告人は埼玉県立高等学校の国語教師となり、じ来今日まで二七年余の間同県内の高等学校に勤務したが、後記の本件犯行当時は、県立蕨高等学校の教諭をしていたものである。

被告人甲は、この間教職を天職と考え、情熱をもって生徒に接してきたため、多くの教え子から慕われ、被告人両名の自宅を訪れる教え子も多く、また、生徒の父兄や同僚達からもその仕事ぶりは高い評価を受けていた。

被告人乙は、父冬男、母春子の四女として東京都内で出生し、埼玉県立女子高等学校を卒業した後は、家庭が裕福ではなかったとことから大学進学を諦め、生命保険会社に勤務するなどしているうち、昭和四三年三月かねてより知人の紹介で知り合っていた被告人甲と結婚し、じ来家庭の主婦としてもっぱら家事に従事していたものである。

被告人両名は、肩書住所地の借地に居を構え、被告人甲の両親と同居の家庭生活を営んだが、右両親との仲もきわめて円満であった。この間、昭和四三年一二月、本件の被害者である長男丙が生まれ、さらに同四六年七月二男丁が、同五四年八月三男戊がそれぞれ生まれた。昭和五七年一〇月、被告人甲の母花子が死亡して後は、被告人両名は、被告人甲の父太郎、被害者丙、丁、戊の三人の子との六人暮しとなったが、さらに平成四年四月に被告人乙の一年余にわたる献身的な看護にもかかわらず、被告人甲の父太郎が死亡した後は親子五人だけの家庭となっていた。

なお、被告人乙の母春子は、夫冬男が昭和五三年に死亡した後は被告人両名の肩書住所地近くの浦和市領家に居住して一人暮しをしていたが、目と耳が悪く足も不自由であったところから、被告人乙が日頃からいろいろと身のまわりの世話をしていたものである。

被害者丙は、小中学校当時、学業の成績もよく、テニスなどのスポーツにも秀れ、さらに音楽にも才能の片鱗を示すなど、いわゆる利発な子であった。そのため、周囲からも可愛がられ、将来を嘱望されていたが、このころから、すでに、被害者丙は、自分が興味を持ったことには強い関心を示し、集中力を持することができるけれども、自分の気の向かないことに対しては、投げやりな態度をとり、担当教師の指導や忠告に対しても素直にこれをきこうとしない、いわゆる我の強い一面をみせていた。昭和五九年四月、被害者丙は、埼玉県立浦和高等学校に進学したが、このころから次第に学業に意欲を示さないようになり、そのため成績も低下の一途をたどった。これを見かねた被告人甲が、「地道に勉強しないとこぼれるぞ。」と注意するなどしていたが、これに対し、被害者丙は「俺がこぼれるわけがないだろう。」とうそぶき、父親の忠告に耳を貸そうとはしなかった。また、被害者丙は、クラスの同僚の生徒達などとの交際の面でも、次第に孤立感、訴外感を抱くに至り、クラブ活動でやっていた軟式テニスも一年生の終りころにはやめてしまい、ポピュラー音楽の作詞、作曲や演奏にのみ熱中するようになった。二年生の三学期になると、登校もやめ、自宅に閉じこもって作曲に没頭するようになり、被告人甲がたびたび高校位は卒業した方がいいから登校するようにと注意しても、これをきこうとはせず、テストさえ受けようとせず、結局、自ら学業を放棄する形で、昭和六一年三月右高校を中途退学した。その後も被害者丙は、部屋に閉じこもって音楽を聞いたり作曲に没頭する生活を続けていたが、この間、被告人甲から諭されてスーパーの店員のアルバイトをするなどもしていた。同年七月ころになり、被害者丙は突然大学へ行きたいといい出し、急遽、大学入試資格検定試験の準備に取りかかり、猛勉強の末、同年一〇月右試験に合格し、さらにその後も猛勉強を継続して立教大学文学部英文学科に合格し、翌六二年四月同大学に入学した。被害者丙の行末を案じていた被告人両名はこれをみて愁眉を開いた。しかし、被害者丙は、大学に入ると、ほとんど授業に出ることもなく、専らスキーのサークル活動に熱中し、日本スキー連盟の一級資格を取得して、冬には白樺湖でスキーのインストラクターをするなどして、学業の方は再び完全に放棄してしまい、四年進級時には、単位不足で卒業できない状態に追いこまれ、平成二年三月同大学を中途退学するにいたった。この大学在学中、被害者丙は、自らのアルバイトで小遣を稼ぐことは一切せず、学費のみならず、遊興費についても被告人らに全面的に依存しており、そのため、被告人両名は、被害者丙の将来に強い懸念、不安を抱かざるをえなかったばかりか、経済的にもかなりの苦況に陥ることとなった。被害者丙は、大学中退後、一時は司法試験を目指して勉強したこともあったが、間もなく棒を折ってしまい、その後は、たまにスキーサークルの仲間と遊びに出かける時以外は家に閉じこもり、昼寝て夜起き出し酒に耽溺するというきわめてすさんだ生活の中で、酒に酔っては被告人乙に当たりちらし、悪態をつくという行動をくりかえすようになった。被害者丙をこのまま放置すれば、被害者丙自身の生活が破綻してしまうばかりでなく、家庭そのものが崩壊してしまうと危惧した被告人乙は、同年七月、被害者丙に精神科の専門医に診断を受けさせようと考え、東京都新宿区の「柴田クリニック」に予約をとり、その旨被害者丙に伝えたが、被害者丙が右クリニックに行くことを渋ったため、やむなく一人で右クリニックに赴き、右クリニックの柴田出医師に被害者丙の現状を話したところ、同医師からは退却神経症ではないかと思うといわれ、同名の本を示されてこれを買って読んでみてはと勧められたので、帰途この本を買い求め一読した結果、被害者丙の症状はそこに書かれてある「自己愛パーソナリティ障害」にぴったりとあてはまると直感した(この本の「自己愛パーソナリティ障害」の項には、「一見したところ平均以上に良い社会的適応を果たしているかに見える。にもかかわらず、その実、内心では、深刻な無気力、無感動、無快楽を体験しており、わがままパーソナリティ、修正されにくい誇大な自己イメージをもち、他人を愛したり、他人に献身したりということがなく、逆につねに他人に称賛され、愛されることを当然のこととして求める。いってみれば、格好はよいが、正真正銘のわがまま人間、わが道を行く人間」などと記載されていた。)。このころになると、被害者丙の言動はますます常軌を逸したものとなり、同月三〇日ころ、被害者丙の部屋で本棚が倒れる音がすると同時に「ギャー」という悲鳴が聞え、その直後、被害者丙が真っ青な顔をして部屋からとび出し、被告人らのいる居間の方に来るなり、鳥肌を立て体を震わせながら、「怖い。」「何かとりついているようだ。自分が死ぬような感じがした。」と叫び自分が霊か何かにとりつかれたような幻覚に襲われたことを訴えたので、被告人らが被害者丙を連れて「浦和保養院」へ行き、医師の診断を受けさせるという出来事があった。被害者丙は医師から注射を射ってもらうとようやく落ち着きを取り戻したが、医師から昼夜逆転の生活を正常に戻し、酒もビール一本程度に控えるようにいわれ、精神安定剤をもらって帰宅した。その後しばらくの間は、被害者丙もこれに懲りて夜眠るように努め、酒も控えるなどしていたが、右医師からその後も様子を見せに来るよう指示されていたにもかかわらず、また、被告人らの勧めも無視して右医師のもとに行こうとはしなかった。

平成三年夏ころ、旅に出かけていた被害者丙から電話があり、交際している女性との性交渉がうまくいかないという悩みを打ちあけられた被告人乙は、この話を被告人甲に伝えたので、被告人甲はやがて旅から戻ってきた被害者丙に対し、その性的不能は肉体的なものではなく心因性のものだと教え、医者のもとに行き診断を受けるようにと忠告した。しかし、被害者丙は、このころから、酒を飲むとことあるごとに被告人乙に対して「こんな体に生んだのは親の責任だ。」などとあたりちらし、家のドアを拳で殴ったり、椅子をひっくりかえしたり、家財道具を投げつけるなどの対物暴力をくりかえし、被害者丙に対して右性的不能は心因性のものにすぎないから医師の診断を受けるようにとの被告人乙の説得に対しても、「俺のは脳から来るものだ。こんなことが医者で治せる訳がない。すべて親の責任だ。」とつっぱね、耳を貸そうとはせず、重ねて説得しようとする被告人乙に対して「うるせいんだよ。心中覚悟で注意しにこい。」などと暴言を吐き、ビールを飲んでは家財道具にあたりちらす言動をくりかえした。被告人甲も被告人乙から被害者丙のこうした言動を聞き、被害者丙に対して、病院に行くように勧めるとともに、仕事をするようにとの忠告もした。被害者丙は、病院には行こうとはしなかったものの、被告人甲の忠告にしたがって、間もなくピザ配達のアルバイトをするようになったが、配達の途中で交通違反をくりかえして自動車運転免許の停止処分を受け、一か月を経ないうちに右アルバイトをやめてしまい、再び家でぶらぶらする生活を送るようになり、デートなどに出かける都度被告人乙から小遣銭をせびりとってゆくという状況が続いた。

平成四年四月、被告人甲の父太郎が亡くなり、被害者丙も自分をこよなく可愛がってくれた祖父の死に直面してそれなりに考えるところがあったのか、間もなく東京都港区の高級焼肉レストランで週四日間、午後一〇時から午前五時までの勤務のアルバイトをするようになったが、被害者丙の家庭内暴力は収まることはなく、同年五月ころ、被告人甲が被害者丙に対し、ビデオの音量を小さくするように注意したところ、被害者丙が怒り出し、焼酎を撒き散らしたり、ガスレンジのステンレスに向けて椅子を投げつけるなどして暴れた。

この被害者丙の家庭内暴力は、被告人乙に対する単なる悪態、面罵から発展してきたものであったが、右のように次第にその程度も激しいものとなり、また、当初は、被告人甲のいないところでのみ敢行されていたのに、やがて被告人甲の面前でも行なわれるようになったという点でも徐々にエスカレートしてきていた(もっとも、被害者丙の右家庭内暴力は、対物暴力にかぎられており、被告人らの身体に対する有形力の行使にまで発展することはほとんどなかったという点では、なお、それなりに自制を伴ったものではあった。)。

義父太郎の介護や実母春子の世話だけでもかなりの負担となっていたところに、このような長期間にわたる被害者丙の家庭内暴力に直面し、しかもそれが鎮静化のきざしが全くないばかりか次第にエスカレートしてきているのをみた被告人乙は、このままでは被害者丙の人生も破滅の他はなく、ひいては自分や二男、三男も共倒れの形で破滅するほかはないのではないかと感ずるようになり、日々暗澹たる気持で暮していた。こうした思いは、被告人甲も同じであり、事態の打開のための有効な方策も見出せないまま時が推移するうち、やがて被告人甲は、父太郎が死去したのを契機として、思いきって、自分が二七年余にわたる教師生活にピリオドを打ち、すでに高等学校を卒業して大宮市内の建設会社に就職していた二男丁と被害者丙を首都圏に残して、被告人乙と三男戊とを連れて四国か九州に行き、そこに身を落ち着けて余生を送ることにしよう、それが被害者丙の家庭内暴力によって家庭が崩壊するのを防ぐ唯一の手立てであり、また、アルバイトを初めて自立へのきっかけをつかみつつあるようにもみえる被害者丙の立直りのためのよすがともなるのではなかろうかと考えるにいたり、被告人甲からこの意向を漏らされた被告人乙もこの考えに賛成した。

そこで、被告人甲は、同年五月一九日ころ、自宅の居間で、被害者丙と二男丁に対して右の決意を伝え、平成五年三月をもって教師を退職し、自宅も処分するつもりなので、それまでの間にそれぞれが自立した生活に入れるように準備しておくようにと申し渡した。二男丁は、父親の意図するところとその決意の堅さを感じ取り、被告人甲の右申出に直ちに同意したが、被害者丙はその場ではあえてこれに異を唱えなかったものの、内面では自分が両親に見捨てられたように感じ、家庭内での暴力をさらにエスカレートさせ、ビールを飲んでは被告人乙に「自分をこんな体に生んだ親が悪い。」などと罵り、椅子を投げたり、グラスを叩き壊すなどの乱暴狼藉をくりかえした。

平成四年五月三一日、死去した父太郎の納骨法要が営まれたが、被害者丙は、右法要にきた多数の親戚の人達の面前では、ごく普通に振舞い、家庭内暴力の片鱗も見せなかったにもかかわらず、これらの人達が立去った翌六月一日の未明あたりからテーブルや椅子をひっくりかえす等の暴行をはじめた。被害者丙が可愛がってくれた祖父の死をきっかけに、少しは立ち直ってくれないだろうかと期待していた被告人らは、こともあろうにその祖父の納骨の日に暴れる被害者丙の姿に愕然とし、絶望のどん底につきおとされた。

その後、被害者丙は、自室で酒を飲みながら曲づくりをしている様子であったが、間もなく部屋から出てきて被告人乙に「職場の同僚と飲み会があって行ってくるから、一万円をよこせ。」といって被告人乙から一万円を受取り、酒に酔ったままの状態で車に乗って外出した。

(罪となるべき事実)

被告人両名は、平成四年六月一日夜、被害者丙が再びアルバイトに出勤すべく外出した後、親の心を踏みにじる言動を日夜くりかえし、家庭の平和を蹂躙してかえりみない被害者丙に対してはもはや万策尽き、家庭の崩壊を防ぐためには被害者丙を殺害する他はないのではないかなどとどちらからともなく話し出し、事態が好転せずこのまま推移する場合には、同年同月七日に予定されている姪の結婚式が終った後に、被害者丙の苦痛が最も少ない形で同人の生命を奪うべく出刃包丁で心臓を一突きする方法でこれを実行しようとの共謀を遂げた。その際、被告人甲は、現職の教師のままで犯行に及んだ場合には、教え子はもとより、学校関係者にも深刻な影響を及ぼすことになると考え、被告人乙に対し、犯行を決行する場合には、その前日に退職願を学校当局に提出しておく意向を漏らした。翌六月二日、被害者丙は、午前七時ころアルバイト先から帰宅し、就寝したが、午後六時前、被告人乙に起こされて、アルバイト先の仲間と酒を飲むべく、同被告人からまた一万円を受取って出かけたが、深夜帰宅し、翌三日の早朝にかけて、交際中の女性に電話をかけ、長時間話し合ったが、相手の女性から自分の期待していたような返事が得られなかったところから、その女性と言い争いのようになり、その立腹、苛立ちからその直後コードレスホーンの受話機を壊すなどの乱暴をしたが、さらに午前六時過ぎころ、食事の支度のため階下に降りてきた被告人乙が居間のテーブルの上のコップ等を片付けようとした際、やにわに右テーブルを横倒しにしたうえ、被告人乙に対し、「めし」と叫んだ。右被告人が急いで食事の支度をして台所のテーブルの上に被害者丙と夫のための食事を並べた。また、被害者丙がその時被告人乙に対して「ビールを買ってこい。」と命じたので、右被告人が近所の酒屋から缶ビールを買ってきて被害者丙に渡した。同人は終始無言で右ビールを飲みながら食事をした。被告人両名は、食事後、被害者丙が横倒しにした居間のテーブルを元の位置に戻し、その後、被告人甲は午前七時ころ出勤のため家を出た。午前八時ころ、被害者丙が被告人乙に対して「ラーメンを作れ。」と言ったので、同被告人がラーメンを作って台所のテーブルの上に置くと、被害者丙は少し箸をつけて「まずい。」と言いざま、どんぶりごと台所のドアをめがけて投げ捨てた。被告人乙は泣きたい気持を抑えて、黙ってその後始末をした。その後さらに二男丁と三男戊が出掛けた後、被害者丙は、被告人乙に対し、「彼女とは別れた。てめえら四国に逃げようたってそうはさせないぞ。あいつの退職金だって皆使わせてやる。一生死ぬまで苦しめてやるからそのつもりでいろ。お前らは塩飯でも食え。その分浮いた金を俺によこせ。」と言い放った。

被告人乙は、藁にも縋る思いで、同日昼ころ、大宮市内の新興宗教の祈祷場に赴き、被害者丙の家庭内暴力の状況を説明して相談したところ、霊視能者なる相手の女性から水子の霊が被害者丙にとりついているので、このままでは主人が殺されてしまうなどといわれた。被告人乙は、かつて妊娠中絶をしたことがあり、相手の女性がいっていることはこの妊娠中絶のことだと受止め、多額の謝礼の支払を約して六月八日からの三日間の祈願を依頼して帰宅した。この経緯を被告人乙から聞いた被害者丙は、その夜、被告人甲に対して、「お母さんから聞いたんだが、おろした子供がたたっていると言っているらしいけど、どうなんだ。」と詰問するように問いただした。被告人甲は、被告人乙がかつて妊娠中絶をしたことはそのとおりであるが、水子のたたりなどということは迷信にすぎない旨福翁自伝の一節を引用しつつ被害者丙に話しはじめたところ、被害者丙は、これをさえぎるように、「そんなことをしやがって。」「そんな本の中のことを聞いているんじゃねえんだよ。てめえの考えを聞いているんだよ。」と言い放った。被告人甲は、激しい憤りと深い絶望の中で、「お前、お父さんをどこまでおとなしい人間と思っているのか。」と言い返したところ、被害者丙は、「そんなこと関係ねえんだよ。」とうそぶき、さらに、その場にいた被告人乙に対し、「さっきのこと(前述の塩飯云云の暴言)をおやじに伝えておけよ。」と言った。すでに被告人乙から被害者丙のこの暴言について聞いていた被告人甲は、即座に「ああしっかり聞いたよ」と答えた。その夜、被害者丙がアルバイトに出掛けた後、被告人両名は、二階寝室で、話合い、被告人乙が予約してきた霊能祈願が終っても被害者丙の態度に変化がみられないときには、一日の夜に話し合ったように、姪の結婚式が終った段階で被害者丙を殺害する他はないとのそれぞれの決意を披瀝し合い、互いの意思を確認した。その後、被告人甲は、一人自室にこもり、日付を空欄にした埼玉県立蕨高等学校長宛の退職願を書き、机の引出しに入れた。

被告人甲は、六月四日午前七時四〇分ころ、出勤のため家を出たが、その直後被害者丙が酒に酔って帰ってきて、自分で買ってきた缶ビールを台所のテーブルで飲みはじめたので、被告人乙が朝食を食べるかどうか尋ねると、被害者丙は、「いらん。」と断わったが、その際、被告人乙に「ビールを買ってこい。」と命じた。被告人乙が買ってきた缶ビールを受取ると、被害者丙はこれを飲みはじめたが、やがて「こんな体にしたのは親のせいだ」などと言い出して、台所の冷蔵庫を押し倒したり、台所の電燈の傘を壊すなどした。被告人乙は、被害者丙が自室に入った後、散らばった電燈の傘を片付け、台所のテーブルに倒れかかっている冷蔵庫をやっとの思いで元に戻したが、被害者丙が台所に戻ってきて、「飯を作れ。」と言ったので、朝食をつくり、被害者丙に食べさせた。その際、被告人乙は、何とか親の気持、被害者丙の立ち直りを必死になって願っている自分達の思いを被害者丙にわかってもらいたいとの願いをこめて、前述の霊能祈願の一件を話したところ、被害者丙は、「信じもしない祈願に行っても俺がおとなしくなると思ったら大間違いだ。そんな金があったら俺によこせ」とけんもほろろに言い返し、さらに、「テレビも壊せるな。ガラスもまだあるな。」「マンションをどこかてめえで探してこい。俺が気に入るまで、何か所も探してこい。月三〇万円は仕送りしてもらわないと困るな。」などと言い、被告人乙がこれに答えず黙っていると、被害者丙は「わかったか。」と大声を出した。被告人乙は、この瞬間、被害者丙の右の言葉は、単なる脅しでもいやがらせでもなく、被害者丙の本心であり、被害者丙がもやは自らの力で生きてゆく意志を完全に喪失しており、被害者丙が自分達が破滅に追いこまれるまでどこまでも自分達につきまとい、自分達を食い物にしようとしていることを直感し、言い知れない恐怖、絶望、憤りに襲われるとともに、二男、三男を含む自分達の人生を守るためにはやはり被害者丙を殺害する他はない、猶予はならず今日こそ被害者丙を殺害する他はないと考えるにいたり、実家から電話して職場の被告人甲に対し、当日の被害者丙の言動を伝えるとともに、右の決意を打ちあけた。被告人甲も、もはやこれまでとの思いから、帰宅後直ちに被害者丙を殺害することを決意し、あらためて退職願を書き、職場のデスクマットの下にしのばせたうえ、被告人乙の実家に赴き、同所で被告人乙と落合い、同被告人が右実家の台所にあった出刃包丁(刃体の長さ約15.35センチメートル、〈押収番号略〉)を和紙に包んで持ち出し、二人で同日午前一一時四〇分ころ自宅へ向かった

被告人両名は、同日午前一一時四五分ころ自宅に着いたが、まず被告人乙が台所で被告人甲に右出刃包丁を手渡したうえ一階にある被害者丙の部屋へ行き、被害者丙が就寝していることを確認してきて被告人甲に伝えたので、被告人甲が右出刃包丁を持ち、被告人乙が三男戊の机のそばからモデルガン(重量約1.48キログラム、〈押収番号略〉)を探し出して手にとり二人で被害者丙の部屋に入り、同所において、就寝中の同人に対し、被告人甲が右出刃包丁でその胸部等を突き刺し、被告人乙が右プラスチック製モデルガンでその頭部を殴打し、更に、右出刃包丁の刃先が折れるや、被告人乙が台所から牛刀(刃体の長さ約18.1センチメートル〈押収番号略〉)を持参して被告人甲に手渡し、同被告人が右牛刀で被害者丙の腹部及び胸部等を突き刺し、よって、そのころ、同所において、同人を胸腹部刺切創群に基づく失血により死亡させて殺害した。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

被告人両名の判示所為はいずれも刑法六〇条、一九九条に該当するので、いずれも所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人両名をいずれも懲役三年に処し、情状により同法二五条一項を適用していずれもこの裁判確定の日から五年間右各刑の執行を猶予することとし、押収してある牛刀一丁(〈押収番号略〉)は被告人両名が判示犯行に供したもので、被告人両名の所有にかかるものであるから、同法一九条一項二号、二項本文によりこれを被告人両名から没収することとする。

(量刑の理由)

本件は、前述のように、長期間にわたる長男の家庭内暴力等に耐えかねた両親が、逡巡の末に長男を殺害する以外には家庭を崩壊から救う手立てはもはやないと思いつめるにいたり、共謀のうえ、この長男を惨殺したという事案である。長年いつくしみ育ててきた長男を両親が自らの手で殺害したという、きわめて特異で悲惨な事件であるが、事件が現在深刻な社会問題となっている若年者の家庭内暴力の最も悲劇的な結末として生起したものであり、しかも、このような事件が、多年高校教育に従事し、教師として周囲から高い評価を受けてきた人の、理想的で何ら問題はないとみられていた家庭で発生したという点で、世間の耳目を集め、かつ世間に大きな衝撃を与えたものである。

まず、本件の被害者である長男丙の人となりと長男丙が家庭内暴力へと追いこまれていった精神的な荒廃のプロセスについて考察する(当裁判所は、本件の事件記録を何度も精査し、多くの関係者の証言や被告人両名の法廷における詳細な供述を聞いたうえ、検討吟味を加えてきたものであるが、右の被害者丙の精神的荒廃に追いこまれていった心理的プロセスについては、今なお、十分に把握し、理解しえたとは考えてはいないのであり、以下に述べるところも所詮は一面的な一つの理解にすぎないと考えている。)。

被害者丙は、自我(自己愛、アドラーのいわゆる優越欲)のきわめて強いパーソナリティの持主であったように思われる。このパーソナリティは、多分に先天的な資質に負うところが大であったと思料されるが、同人が学業の成績もよく、テニスなどのスポーツや音楽にも秀れた、きわめて利発な子であり、そのため幼少のころから周囲からちやほやされて育ったという後天的要因によって次第にきわめて強固なものとなっていったように思われるのである。この過程は同人が、自我を肥大化させて高慢、ナルチシズム、自己中心、独善、放縦さに全面的に身を委ねていった過程でもあったろう。そして、その結果は、まず、学業にもついてゆけず、学校生活にもなじめず、高校を中途退学せざるをえなくなるという形での挫折となってあらわれたようにみえる。この挫折は、直接的には被害者丙の高慢、放縦がしっぺがえしを受けたものというべきであるが、そこには被害者丙の肥大化した自我の要求するところの自分(すべてに有能であって、恰好よく、周囲のすべての人から賞讃されるような自分)と現実の自分とのギャップ、乖離が次第に大きくなってゆくにつれ、そのギャップが被害者丙に激しい内的緊張をもたらし、ついにそのギャップが破綻して露呈するにいたった最初のステップとみるべき面もあったように思われる。やがて、被害者丙は、猛勉強によって大学入学資格検定試験に合格し、さらに立教大学に合格するのであるが、この間の同人の驚異的な努力は、このギャップを埋め、何とか社会的適応性を回復しようとする同人の必死のもがきであったろう。この試みは、一たんは成功したかのようにみえたが、やがて同人は、大学中退という、以前と同じ形での挫折に直面するのである。そして、その後は、きわめて自閉的な営みの中で酒に耽溺し、酒によって自分の内面の苦しみをまぎらわそうとし、かえって己れの内面の自我の肥大と落伍感、疎外感により悩まされることになるという生活パターンをくりかえしていったように思われる。この自我の肥大は、一方では、この自我を満足させるべきあるべき自分についての要求水準を高めることにより、他方では、実生活の面での無気力、放縦な対応を生むことによって現実の自分を支えている基盤を少しづつ切り崩してゆくことで社会適応性を徐々に喪失してゆくことにより、ますますあるべき自分と現実の自分とのギャップ、乖離をより大きなものとし、さらにその乖離が被害者丙の内面に強い不安を呼びおこし、情緒的安定感を失わせるというプロセスをたどったようにみえる(被害者丙が霊に襲われたような幻覚にとらえられたという前述の出来事は、この内面の強い不安が突然尖鋭化した形で同人の意識の表層に浮びあがったものと思料されるのである。)。また、この乖離は、被害者丙をして、対外的な局面と家庭など対内的な局面とでその行動パターンを使いわけるという操作をも生み出し、ジギルとハイドのように、次第に「外面」と「内面」とで全く異なる人格態度をとらせることにもなっていったと思われる(同人の人柄、性格についての外部の人々の評価、受け止め方と、被告人ら家族の者などごく身近な人々の同人に対する評価、理解がきわだって異なっているのがその証左であろう。)やがて、この使い分けは、外的人格(心理学者ユングのいう、いわゆる「ペルソナ」)と内的人格への分裂へと発展してゆき、その人格の分裂ともいうべき現象も本人に深刻な内面的葛藤をもたらしたように思われる。

被害者丙のこの頃の生活は、おそらく充実感も自分の前途に対する希望も全くない、社会生活から完全に自分が脱落するのではないかという、おびえ、不安から時には希死願望、自殺念慮にさえとりつかれる索莫とした、潤いの全くないものであったであろう。同人の家庭内暴力は、こうした内面の葛藤から逃れんがためのデスペレートなもがきの表現であったようにみえる。また、それは、内面的に親からの自立を遂げていない、幼児性を濃厚に残していた同人の屈折した「甘え」の表現でもあったであろうし、自己がこのような内面的状況に立ちいったことについての責任を他に転嫁せんとする「自己正当化」の衝動の表現でもあったとも考えられる。こうした状況の中で被告人甲からの四国か九州へ行き余生を送る旨の被害者丙の自立を迫る前述の申出は、同被告人の立場からすれば局面を打開するためにとりうる唯一の方策に他ならなかったのではないかと思料されるが、このように追つめられた状態にあった同人にとっては、自分が依存している最後の拠り所さえ奪う暴挙としかみえなかったであろう。このやりとりを契機として、同人の家庭内暴力がさらにエスカレートし、やがて、前述の塩飯云々、マンション云々の発言となっていったのも同人の内面のこうした心理状態を前提とするかぎりそれなりに了解できるところのように思われるのである。このような精神的荒廃の極限にいたっていた被害者丙の心理状態はいわゆる精神病とは次元を異にしたものとはいえ、周囲の人との真の意味での情緒的、人間的なコミュニケーションを全く不可能にし、本人を極度の孤立に追いこむものである点では、これと共通しているのであって、一種の「狂気」と形容してよいもののように思われる。そして、ことここにいたった同人が本人の努力、周囲の協力によりこの荒廃から立ち直って情緒性、社会的適応性を回復するということは、もはや不能といっても過言ではない、きわめて難しいことのように思われる。また、本件殺害がなされなかったと仮定した場合に、事態がどのように推移したかを推測することは決して容易なことではないけれども、おそらく、対物暴力に局限されていた同人の家庭内暴力が対人暴力へと発展し、被告人らが生命、身体をおびやかされるような事態にいたったということも十二分に考えられるところと思料されるのである。

それでは、被害者丙がこのような破局的な精神的荒廃に追いこまれていった経緯について、被告人らが親として何らかの責任があるとみるべきかどうかを考えるに、被告人らの幼少時から今日にいたるまでの同人に対する対応の中に、価値観の押しつけや同人が自我を肥大させ、高慢を助長させるように仕向ける言動があったとは思われない。もとより同人の幼少時から中学校時代までにおける被告人らの同人に対する対応の中に親として同人の利発さを喜びその将来を期待する言動が折にふれてあり、これが同人の慢心を助長したという一面がなかったわけではないと思われるけれども、それは、世間一般の親の子に対する常識的な接し方の範疇を逸脱したものとは到底いえないのであり、この点において被告人らに非難すべき不手際はなかったように思われるのである。ことここにまでいたった第一の要因はやはり被害者本人の資質的なものにあったと思われるし、また、そもそも何人にとっても、自分の内面にある自我の扱いを誤まり、高慢、放縦に自分を委ねるとき、このような破局までいたることがあるのではないか、人間の自我のこのような危険性は何人にも共通しているのではないかとも思料されるのである。また、被害者丙が高校中退、大学中退というプロセスを経てついに家庭内暴力へといたった過程での被告人らの対応をみても、大筋においては、被告人らは粘り強く理性的に被害者丙に接していたように見受けられるのであり(証人山田が指摘しているように、被告人らに被害者丙の自主性を尊重しすぎて親としてのリーダーシップがやや希薄であったという一面があったとしても同人の我の強い性格からして被告人らがより強い態度で同人に臨んでいたとしても、事態の推移はあまり異なったものとはなってはいなかったのではないかと考えられるのであり、被告人らの被害者丙に対するこうした対応も事態を悪化させた要因とみる余地はないように思われる。)、結局この点においても、とくに被告人らの非と目すべきものも見出し難い(もとより、被告人らの被害者丙に対する接し方が完璧で無謬であったというのではなく、被告人らの被害者丙に対する接し方が、世間一般の親のレベルからみるかぎり、非とすべきほどの欠陥は全くなかったという意味に他ならない。)。そして、被害者殺害を決意するにいたった被告人らの心情も、前述のような経緯、被害者本人の言動をふまえて考えるかぎり、それなりに理解できるところと思われる。長年にわたり被害者丙の放縦にふりまわされた挙句、やがては家庭内暴力へと発展し、その暴力も次第にエスカレートの様相を見せていた被害者丙に対しては、被告人甲も被告人乙もそれまで日夜生きた心地もしない、身も心もずたずたになった状態で、長い年月、ひたすら事態が多少とも好転することを冀いつつ、何とか耐えに耐えていたのであり、この間の自らの心情について被告人らが供述するところは、同情の念を禁じえないものがある。このような被告人らにとって、被害者丙の前述のような塩飯云々の発言、前述のどこまでも被告人らにつきまとってやる旨の発言は、悪魔の脅迫、悪魔のせりふとしか聞えなかったであろう。これらの言葉を直接聞いた時に被告人乙が感じた、いい知れない恐怖と絶望、憤りの気持は当裁判所においても痛いように理解できるように思われる。被害者丙を惨殺したという被告人らの刑責にきわめて重大なものがあることはいうまでもないけれども、これまで被害者丙の殺害を考えながらもなお躊躇、逡巡を示していた被告人らが、被害者丙のこれらの言葉を聞くに及び、最終的に決断するにいたったその心境はそれなりに理解できるところというべきであり、客観的にみても、被害者丙の精神的な荒廃が前述のように極限状態にたちいたっている現実を前にしては、被告人らにとって同人の手により家庭が崩壊され、自分達だけではなく二男、三男の人生をも台無しにされるのを甘受するか、被害者丙を殺害するかの選択しかもはや残されていなかったといってよいであろう。

被告人甲は、捜査段階において、後述のように、顕著な反省改悟の情を示しながらも、他方で「現在私は本当にほっとした安堵感があり、第二の人生について考えていく余裕が生じて来た思いです。長男のことで苦しんだ地獄のような日々よりも現在留置場にいる方がずっと楽で食欲もあります。」と述べているのであるが、自らの手でわが子を殺めながらそのことに安堵感さえ覚えるという同被告人の逆説的ともいえるこの告白は、本件を決行するにいたるまでの間同被告人がいかに精神的に追いつめられた状態にあったか、同被告人の置かれていた立場がいかに絶望的なものであったかを雄弁に物語っているように思われる。以上の諸事情を総合するとき、本件は動機という点では大いに酌量すべきものがある事案と考える。

被告人らは、本件犯行後直ちに自首しているのであるが、その後も本件犯行の重大性、己の罪責の重さを十分に認識し、また、被害者丙に対する贖罪の念も十二分に窺われるなど、きわめて真摯な反省改悟の態度を貫いてきていること、被告人甲は、本件のため長年勤めてきた教師の職を懲戒免職の形で失っているが、このことは、同被告人が長年培ってきた社会的基盤、経済的基盤の一切を失ったことを意味しているのであり、すでに本件についてそれなりにきびしい社会的制裁を受けていると評価できる面があるとこと、さらに、被告人らの、これからの人生においても、本件についての量刑、処分の如何にかかわらず、被告人らにとって本件が死にいたるまで大きな心の傷として残ることは間違いなく、被告人らはこのような精神的重荷を担いながらこれからの人生を生き、その中で、二男、三男に対し親としての責務を果たしてゆかなければならないと予測されること、他方、被告人らの二男丁は、捜査段階において、「両親のとった行為は、同情しなければ不憫で仕方ありません。かと言って、兄を殺した行為は、許すことができませんが、両親を許してやりたいと思うのが、偽りのない今の気持です。両親が社会に復帰したさいは、家族全員で、兄の冥福を祈り、昔のような明るい家庭にし、兄の分まで力いっぱい生きようと思います。」と供述し、被告人らの罪責の重さを十二分に受け止めながらも、被告人らが社会復帰した暁には被告人らを受け容れて被告人らと力を合せて被害者の冥福を祈りつつ明るい家庭を築いてゆきたいとの希望を披瀝し、被告人らを宥恕する心情を吐露しており、証人山田など被告人らの親族の多くもまた被告人らに対して同様の気持を抱いていることが窺われるのであるが、この二男丁らの気持は前判示のような本件の経緯からして十分に理解できるところというべきであるし、二男丁らがこのような気持を抱いていることは、被告人らの量刑、処遇を考えるうえでも尊重すべきものを含んでいると思料されることなど被告人らのために酌むべきその余の事情も認められるのであり、これらの諸事情を総合するとき、被告人らに対してもはや実刑をもって臨むことを考慮する余地はなく、被告人らに対しては社会生活の中で被害者の冥福を祈りつつ余生を誠実に歩ましめることこそ刑政の本旨に沿うところと思料されるのである。したがって、主文のように量刑した次第である。

(裁判長裁判官 日比幹夫 裁判官 倉沢千巌 裁判官 内田義厚)

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